ピラティスの生みの親−ジョセフ・ピラティスの生涯− - physica

『自分の身体のコントロールを取り戻す』——現代人に欠かせないエクササイズとなったピラティス。

実はこれ、およそ100年前に一人の男性の情熱と執念によって生み出されたメソッドだということをご存知でしょうか?

今回は、ピラティスの創始者であるジョセフ・H・ピラティス(Joseph Hubertus Pilates)のドラマチックな生涯と功績を見てみましょう!

幼少期は病弱だった!?万病を克服した少年時代

1883年、ドイツのデュッセルドルフ近郊で生まれたジョセフ。意外なことに、幼少期は喘息、くる病、風邪、リウマチ熱などを患う非常に病弱な少年でした。

しかし、彼は諦めませんでした。「強くなりたい」という一心で、体操選手だった父親と自然療法家だった母親の影響を受けながら、ボクシング、体操、スキーなど様々な運動や解剖学を研究し始めます。

14歳になる頃には、解剖学図譜のモデルを務めるほど完璧な肉体を作り上げていたと言われています。

第一次世界大戦と「リハビリ機器」の誕生

大人になったジョセフはイギリスへ渡り、プロボクサーやサーカス芸人、護身術の指導者として活動します。しかし1914年、第一次世界大戦が勃発。ドイツ人であった彼は敵国人として収容所に留置されてしまいます。

実は、この収容所こそがピラティスの歴史における最大の転機でした。

看護師でもあったジョセフは、収容所で仲間たちに独自の運動法を処方。寝たきりの負傷兵でも運動できるよう、病院のベッドのスプリング(バネ)を取り外してフレームに取り付け、抵抗運動ができる機器を作りました。これが、現在世界中で使われているピラティスマシン「キャデラック」や「リフォーマー」の原型です。

ニューヨークへ!ダンサーたちに愛された「コントロロジー」

戦争が終わると、ジョセフは自身のメソッドを広めるためにアメリカへ渡ることを決意します。ニューヨークへ向かう船の上で、後に妻となり、生涯のビジネスパートナーとなる看護師のクララと出会いました。

1926年、2人はニューヨークの第8番街にスタジオをオープンします。

コントロジー

ジョセフは自身のメソッドを「ピラティス」とは呼んでいませんでした。彼が名付けた本来の名前は「コントロロジー(Contrology)」。「精神によって筋肉をコントロールする学問」という意味です。

このスタジオは、ニューヨーク・シティ・バレエの創始者ジョージ・バランシンをはじめとする多くのダンサーやアスリートに支持されました。ケガからの復帰だけでなく、パフォーマンス向上に劇的な効果があることが証明されたのです。

ジョセフ・ピラティスの面白エピソード4選

ここで、ジョセフの人間味が感じられる面白エピソードをご紹介します。

1. タバコとお酒が大好きだった

ヘルスケアの教祖のような存在ですが、実は葉巻(シガー)が大好きで、お酒も大の酒豪。ニューヨークの夜の街でパーティーを楽しむワイルドな一面もありました。

2. 真冬でもパンツ1枚でランニング

彼は「皮膚も呼吸している」と信じていたため、真冬のニューヨークでもトランクス1枚(時にはビキニ姿)で街を走り、人々を驚かせていました。

3. 猫の動きを観察しまくっていた

収容所時代、収容所のフェンスを軽々と飛び越える野良猫たちを何時間も観察。「なぜ猫はストレッチをしなくてもあんなに柔軟で俊敏なのか?」を徹底的に分析し、メソッドに落とし込みました。

4. 時代が追いついたのは彼の死後

ジョセフは「私のメソッドは50年後に世界で採用される」と語っていました。実際、彼が1967年に83歳で亡くなった後、彼が遺した「コントロロジー」は弟子たちによって引き継がれ、創始者の名前をとって「ピラティス」と呼ばれるようになり、言葉通り約50年を経て世界中で大ブームとなりました。

「10回で気分が良くなり、20回で見た目が変わり、30回で身体のすべてが変わる」

ジョセフ・ピラティスが遺した有名な言葉です。

幼少期の病弱さを克服し、戦争の逆境をアイデアに変え、生涯をかけて「心と身体の調和」を追求したジョセフ。自身のメソッドに対する絶好の自信と同時に、体を変えることに近道はなく、継続することの大切さを表しています。

この記事のライター

physica編集部

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